※以下、震災の話になります。心苦しい方はお読みにならないようご注意ください。
1995年1月17日午前5時46分52秒
神戸阪神淡路大震災が発生した日。
被災し亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、ご遺族のに心よりお悔やみ申し上げます。
正直、このような記事を書くことは心苦しいと言いますか、キュッと心を摘ままれるように思います。
ただ、今の子ども達やこれからも語り継いでいく自分への覚悟のためにここに記載させていただきます。
筆者は、当時がまだ幼少期で正直記憶がありません。当時の様子は祖父がよく教えてくれました。
祖父は当時、灘で消防士をしておりました。火災が起こっているにも関わらず瓦礫が邪魔して、消防車が進むことができず、消火活動が大幅に遅れたそうです。
何とか現場に到着するも、浴びせられた言葉は罵倒の数々。
「いったい何をしていたんだ!」
「どれだけの人が苦しんだと思っているんだ!」
「早く来いよ!バカヤロー」
祖父は自分たちは行きたいけど、どこもかしこも進めない、そんなやるせない思いに悔しさと虚しさと無力さを感じながら、泣きながら必死の思いで消火活動をされたそうです。
また、当時は現場のレポートとしてヘリコプターが飛び回っていたそうですが、その音がうるさすぎて、救助活動をしている人たちの声が聴こえなかったり、瓦礫の下にまだいる人の声が聞こえなかったそうです。
祖父は、「地震は自然のものだから誰のせいでも何でもないが、仕方ないと一言で片づけられず、とにかく必死だった」と言っていました。
筆者が体験した舞台のテーマが阪神淡路大震災であり、その脚本は当時の様子を調べたり、実際に被災した方々に聴きながら書いたそうですが、その中の台詞で印象に残っているのが
「色とりどりの神戸の街が灰色一色に覆われていた」
日常は通常ではなく、いつも通りだから…明日もいつも通りとは限らないのだ。
そう学んだセリフでした。
当園でも当時被災した保育士を中心に、阪神淡路大震災の教訓から子どもたちに毎年伝え続けてくれています。
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こういう震災の話は30年経てば風化していくとあるメディアが伝えていたそうです。
逆に言えば、100年前に大地震があった!と今言われても、正直あまり関心はないと思います。
だからこそ、何十年だろうが、伝え続け、いざという時に対応できるようにしたいと強く思いました。
今回の記事は本当に心が苦しく、載せようか迷いました。
ただ、上述したように、そんな自分の気持ちを受け止めながら進み続けるためにと、あえて書きました。
これからも伝え続けます。